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001 秋の田の   --- 天智天皇

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    秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
    - 後撰和歌集 秋の中 -

    部立:秋

    3字きまり

    あきたのかりおのいおのとまをあらみ わがころもでつゆにぬれつつ


    「かりほの庵」かりほは仮庵の約で、仮に建てた小屋、仮小屋の家。刈穂ではない。
    「苫をあらみ」苫とは菅や茅で編んだもので屋根を葺く材料、あらみは粗い。その苫の目が粗くて、粗末なので。
    「わが衣手」自分の着ている着物の袖。


    稲の実った秋の田、取り入れが終わるまで、鳥や獣に荒らされないように仮小屋を建てて、夜毎に番をしている。 その屋根を葺いた苫の目が粗いので、冷たい夜露が入って来て私の着物の袖を濡らしている。
    ---侘びしく、辛い農民の生活を詠まれた御製で、わがは作者である天皇ではなく、農民をさしている。


    天智天皇は、第38代の天皇で、御母の皇極天皇(後に斎明天皇)及び孝徳天皇のときの皇太子中大兄皇子。皇太子として、政治上の実権を握り、大化の改新を断行された。
    旧い氏族制度を代表する蘇我入鹿は、聖徳太子の一族を滅ぼして、その横暴が極点に達していた。中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと力を協せて、蘇我の一族を滅ぼす機会をつくった。
    そして孝徳天皇のとき、初めて年号を制定して大化と号し、645年大化の改心が断行された。
    大化の改心は、氏族制度を打破して、新しい国家の基礎をつくった大改革で、皇族や豪族の土地人民の私有を禁じ、戸籍や租税の制度を定め、国、郡の制度をはじめるなどの改革が行われた。
    天皇に即位されて、都を近江の志賀にうつされ、学校を興し、時の制定など文化向上の基礎を建てられた。
     

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    002 春過ぎて   --- 持統天皇

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      春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山
      - 新古今和歌集 夏の部 -

      部立:夏

      3字きまり

      はるぎてなつきにけらししろたえの ころもすちようあまのかぐやま


      「夏来にけらし」けらしはけるらしの約、夏が来たらしい。
      「白妙の」白い布。枕詞として用いられることもある、白妙の富士の高嶺・・・。
      「衣干すてふ」てふはちょう、というの約、衣(着物)を干すという。


      春が過ぎて、いつしか夏が来たのであろう。天の香具山あたりに、白い布の着物が干してあるのが、点々と見えている。
      ---夏が近づいて来たので急いで、白い衣服を取り出して干すという、その時代の国民の簡素な生活がしのばれる歌。


      作者の持統天皇は、天智天皇の皇女うのさら皇女。天武天皇の皇后で、天武天皇崩御の後をついで第41代の天皇になられた。
      天智天皇が亡くなられて後、日本の皇室には、大きな悲劇が起こった。天智天皇は、はじめ皇弟大海人皇子(後の天武天皇)を皇太子に立て、鸕野讃良皇女を皇太子妃とされたが、まもなく大友皇子が代わって皇太子となり、天皇の崩御によって第39代弘文天皇となられた。
      やがて大海人皇子との争いとなり、弘文天皇は敗れて崩御、大海人皇子が即位して天武天皇となられ、鸕野讃良皇女は皇后となられた。鸕野讃良皇女と弘文天皇は姉と弟の間でありながら、敵、味方に別れて争った。この事件が壬申の乱として史上に残されている。
      天武天皇の崩御についで皇太子の草壁皇子も亡くなられたので、皇后が即位して持統天皇となられ、在位10年で皇孫文武天皇に位を譲られた。
       

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      003 足びきの   --- 柿本人麿

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        足びきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む
        - 拾遺和歌集 恋の部 -

        部立:恋

        2字きまり

        びきのやまどりのおのしだりおの なががしよをひとりかもねん


        「足びきの」山の枕詞。足引きの山の・・・。
        「しだり尾」長くたれさがった尾。
        足びきの山鳥の尾のしだり尾の・・・という上の句全部が下のながながし夜・・・という語の序詞。
        「長々し夜」長い長い夜。
        「ひろりかも寝む」かもは軽い疑いとやるせない嘆きの気持ちを含む助詞、ひとり寝るのかなの意。


        我が思う人は、待っても来ない。この長い長い秋の夜を、待ち焦がれてひとりで寝なければならないのか---恋するものの嘆きを歌ったもので、恋人の姿を追って、秋の夜長を待ちわびる懐かしく悲しい歌。


        作者 柿本人麿は、持統天皇、文武天皇両朝につかえた宮廷詩人といわれ、三十六歌仙の一人で、歌聖と仰がれている。万葉集を代表する歌人。
        行幸のお伴や、公私の用務で、各地を訪ねて、自然や風物を歌にした。
        奈良朝時代の和同十四年石見国で死んだという。臨終の時、大和の都にある妻を思い、自ら傷んだ歌に「かもやまの岩根しまける我をかも知らずて妹が待ちつつあらん」---
        人麿の死を聞いた時、その妻の読んだ歌も、旅にさびしく死んだ夫を思う悲しいもの。
        人麿の歌---
        「ひんがしの野にかぎろいのたつ見えてかえりみすれば月かたぶきぬ」
        「大地もとらば尽きめど世の中に尽き得ぬものは恋にぞありける」
        「久方の天照る月もかぐろいぬ何になぞえて妹を偲ばん」
         

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        004 田子の浦に  --- 山部赤人

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          田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高根に雪は降りつつ
          - 新古今和歌集 冬の部 -

          部立:冬

          2字きまり

          のうらにうちいでてみればしろたえの のたかねにゆきはふりつつ


          「田子の浦」静岡県の富士川河口付近から、沼津千本浜あたりまでの海岸、三保の松原とならんで、富士を見る美しい地帯。
          「うち出でて見れば」うちは語勢の強めるための言葉(接頭語)、出て見る。
          「白妙の」白妙は、山の枕詞、ここでは富士の枕詞。
          「富士の高根」高根は高い山、富士山。


          田子の浦に出て、北の方を見渡すと、高くそびえ立つ富士の山に、雪が真っ白に降っている---けだかく、美しい富士の景色を、そのまま詠んだ歌。


          この歌は「新古今和歌集」からとなっているが、万葉集にある原作では「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」となっている。
          作者の山部赤人は、奈良朝時代の歌人で、柿本人麿とほとんど同時代の人、人麿よりも僅かあとまで生存したといわれる。人麿とならんで名を知られ、三十六歌仙の一人。
          赤人の歌は、自然の美しさを、絵画的に表現して、優美、清澄をもって知られる。その歌四首---
          「春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野をなつかしみひと夜ねにける」
          「明日よりは春菜つまんんとしめし野に昨日も今日も雪は降りつつ」
          「われも見つ人にも告げんなつかしの真間の手古名が奥津城どころ」
          「なつかしの真間の入江にうちなびく玉藻刈りけん古手名し思ほゆ」(真間は千葉県市川市にある)
           

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          005 奥山に    --- 猿丸太夫

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            奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
            - 古今和歌集 秋の部 -

            部立:秋

            2字きまり

            やまにもみじふみわけなくしかの きくときぞあきはかなしき


            「奥山に」奥山は人里はなれた深山、山奥。奥山には下の鳴くにかかるとも、聞くにかかるともとれる。
            「紅葉ふみわけ」紅葉をふみわけるのは、鹿であるとも、作者であるともとれる。
            「秋は悲しき」秋はわびしく、ものさびしい季節といわれる。この歌では、わびしいとか、さびしいとかいわないで、悲しいに飛躍して、妻恋う鹿の声によせる作者の悲しい恋が秘められている。


            秋はさびしいときであるが、奥山で紅葉をふみわけて鳴く、あの鹿の声をきく時は更にさびしく悲しい思いをする---紅葉をふみわけるのが鹿であるとすれば、こういう意味になる。紅葉をふみわけるのが、鹿でなく作者自身とすれば、
            深い山の奥にいて、紅葉の吹き散っている山路を歩いている時、ふと妻を恋慕って鳴く鹿の声を聞くと、秋のあわれを身にしみて悲しい思いが溢れてくる---妻を求めて鳴く鹿の声によせて悲しい恋を歌っている歌ということになる。


            この歌の作者 猿丸太夫についても、その伝記に異説があって「古今和歌集」には、この歌は「読人知らず」として載せられている。
            奈良時代のおわりから、平安時代のはじめに実在したともいわれるが、伝説中の人と見ていい。
            「古今集」秋の部には、鹿をよんだ次の歌もある。
            「ゆう月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらん」(紀貫之)
            「山里は秋こそとにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ」(壬生忠岑)
             

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            006 かささぎの  --- 中納言家持

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              かささぎのわたせる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞふけにける
              - 新古今和歌集 冬の部 -

              部立:冬

              2字きまり

              さぎのわたせるはしにおくしもの きをみればよぞふけにける


              「かささぎのわたせる橋」かささぎは鵲と書いて尾長鳥に似た鳥。七月七日、七夕の夜、この鳥が天の川につばさをならべて橋をつくり、織女(たなばたぼし)を渡して、牽牛(ひこぼし)に合わせるという---伝説にある天の川の橋。天の川、仰ぎ見るその天井から、宮中のきざはし(階)をさして言ったものとも思われる。
              「ふけにける」ふけてしまった。


              かささぎのかけ渡した天の川の橋に、霜がまっ白くおりている。夜がふけてしまった---という見方と
              宮中の階にまっ白におりている霜を見ると、夜がふけてしまった---という見方と、解釈の上に二つの見解がある。そのどちらにしても、ふけてゆく冬の夜の寒気が、身にしみとおるような感じが歌われている。


              作者の大伴家持は、大伴旅人の子で父子とも歌人として知られる。家持は奈良朝から、平安朝のはじめにかけて宮中につかえた。
              家持は無実の罪で都を追われたことがあったが、その死後も再び無実の罪で名をけずられ、二十年もたってから復位したという。家持の歌三首---
              ○春の野に霞たなびきうらかなしこの夕かげにうぐいす鳴くも。
              ○うらうらと照れる春日に雲雀あがりこころ悲しもひとりし思えば。
              ○海原のかすみにたなびき鶴が音のかなしき宵は国方し思ほゆ。
               

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